尊大型ASDの父親に休日を奪われた|落ち葉掃除で腰を痛め、外食にも振り回された日

尊大型ASDの父親に、また人生の一日を奪われた。自分の思い込みで家族を振り回す父への怒り

2026年10月21日。またしても、尊大型ASDの父親に一日を台無しにされた。

私の父は、いわゆる「尊大型」と呼ばれるタイプで、自分の考えを強く押し通し、家族を自分の都合で動かそうとする。

もちろん、ASDの人がみんなそうだという話ではない。これは私が何十年も一緒に暮らしてきた父親の話だ。

父には昔から、自分の頭に何かが浮かぶと、それを実行するまで気が済まなくなるところがある。そして厄介なのは、自分一人で済ませられることでも、必ずといっていいほど家族を巻き込むことだ。

自分の都合を優先する一方で、家族が何をしたいのか、疲れていないのか、迷惑していないのかということには、ほとんど関心が向かない。

しかも、こうしたことが起きるのは月に一度や二度ではない。

週に何回も、父親の思いつきや一方的な思い込みによって家族が動かされる日がある。

一つの問題が終わっても、数日後にはまた別の問題が始まる。ときには一日のうちに何度も振り回される。

そのたびに自分の予定を変更し、時間を奪われ、精神的に消耗する。そんな生活が、私の子供のころから何十年も続いている。

今回も、まさにそんな一日だった。

本当は、喜びをかみしめる大切な休日だった

実は前日の10月20日、私は長年運営してきたブログのサーバー移転を成功させた。

長い間、レンタルサーバー「ロリポップ!」の表示速度の不安定さに苦しめられ、何度もサポートとやり取りを重ねてきた。ようやくその問題に区切りをつけ、新しい環境でサイトを動かすことができたのだ。

本当に嬉しかった。

これまでの苦労が報われたような気持ちで、月餅を食べ、コーラを飲みながら一人でお祝いした。

そして翌日の21日は、筋トレのオフにしていた。

2024年6月から筋トレを続けている私にとって、休養日は大切な時間だ。

身体を休ませながらパソコンに向かい、移転したばかりのサイトを眺め、昨日の成功をゆっくり喜びたい。

そんな、ささやかで幸せな一日を過ごすつもりだった。

ところが、その予定を父親にすべて壊されることになった。

朝から定期預金を下ろすことで頭がいっぱいの父

その日、父は朝から落ち着かなかった。

定期預金を下ろせる日だったからだ。

父はこういうとき、頭の中がそのことでいっぱいになる。

別にその日のうちに大金を使う予定があるわけではない。必要になったときに下ろせばいいものを、下ろせる日になると、すぐに下ろさないと気が済まない。

これは昔から変わらない。

一度「定期を下ろす」と決めたら、もうそれ一辺倒。何度もその話をして、自分の思いどおりに物事を進めようとする。

そして、父にはもうひとつ困った習慣がある。

お金を下ろすと、今度は決まって外食や買い物のことを考え始めるのだ。

今回もそうだった。

あとから聞いた話では、父は家を出る前から「サイゼリヤに行こうと思ってるんだ」と話していたらしい。

つまり、父の頭の中では、もう外食することが決まっていたのである。

しかし、私はそんな予定を聞いていないし、そもそも外食などしたくなかった。

ここが父の厄介なところだ。

自分が行きたいと思えば、家族も当然付き合うものだと考えてしまう。

「今日は疲れていないか」「ほかに予定はないか」「一緒に行きたいか」

そういう確認がないまま、父の希望が家族全体の予定になっていく。

落ち葉を6袋も掃除して、腰に異変を感じた

この日は、家の外にたまった大量の落ち葉の掃除もした。

集めた落ち葉は、なんと46Lゴミ袋6袋分。

落ち葉掃除というのは、見た目以上に腰に負担がかかる。

何度も前かがみになり、身体を動かし、落ち葉を集める。これを繰り返しているうちに、腰に疲労がたまっていく。

私は普段から筋トレをしているので、自分の身体の変化には敏感だ。

特に腰は以前から弱点だと自覚しているため、無理をすると危険だという感覚も分かる。

そして掃除の途中で、すでに嫌な予感がしていた。

「ああ、これはちょっとヤバいな……」

腰に疲労が蓄積しているのを感じた。

本来なら、ここで負担を減らして身体を休ませるべきだった。

しかし、この日は税理士のところへ行く用事もあった。

その途中で40分ほど歩くことになり、腰の疲労はさらに増していった。

歩きながらも、「これ以上はまずい」と感じていた。

それでも、何とか用事を済ませた。

この時点で、私はもう十分に疲れていた。

本当なら、帰宅して横になり、腰を休ませたかった。

ところが、父親の外食が待っていたのである。

逃げたのに、姉からLINEが8通も届いた

父親が外食を言い出すと、断るのが難しい。

だから私は、巻き込まれないように早々とその場を離れていた。

ところが、今度は姉からLINEが届き始めた。

その数、なんと8通。

父親が姉に「呼べ」と言っていたのだ。

もう、ふざけるなと言いたい。

父親が食べたいなら、一人で食べればいい。

姉も外食が好きで、父親がお金を下ろすと、ごちそうになったり買い物をしてもらったりすることを楽しみにしている。

だったら、二人で行けば済む話ではないか。

ところが、父は姉と二人きりで食事するのが気まずいらしく、私まで呼び出そうとする。

自分が気まずいから、ほかの家族を巻き込む。

私が疲れていようが、腰が痛かろうが関係ない。

結局、私は断りきれず、食べたくもないサイゼリヤに付き合うことになった。

サイゼリヤで、ついに腰に痛みが出た

私はもともと、サイゼリヤに行きたくもない食べたくもない。

それどころか、この日は腰が疲れていたため、長時間座っていたくもなかった。

それでも父親の予定に付き合い、店で食事をすることになった。

そして、ドリンクバーを利用するために席を立ったときだった。

「あっ、腰に来た……」

はっきりと分かった。

鋭い激痛ではないが、腰の真ん中あたりに痛みが出てしまったのだ。

落ち葉掃除のときから感じていた嫌な予感が、現実になってしまった。

私は自分の身体の状態を把握していた。

掃除の途中でも、税理士へ歩いている途中でも、身体は何度も警告を出していた。

それなのに、休むことができなかった。

なぜなら、父親の外食に付き合っていたからだ。

それからは腰を支えるように力を入れ、何とか耐えながら帰宅した。

もし一人で行動していたなら、私は途中で予定を変更し、身体を休ませることを優先できた。

しかし、今回はそれができなかった。

自分の身体の状態を自分で判断しているのに、他人の都合に合わせるために無理を続けなければならなかった。

これが本当に悔しかった。

帰宅しても腰が痛く、好きなパソコンすらできない

ようやく帰宅したころには、もう夕方になっていた。

貴重な休日は、ほとんど終わってしまっていた。

私は普段、スタンディングデスクで立ちながらパソコンを使っている。

ブログの記事を書いたり、サイトを管理したりするのが日常であり、大切な楽しみでもある。

ところが、この日は腰がつらくて立ち続けることができなかった。

少し横になって休んでみたものの、そこから立ち上がるときにも腰が痛む。

もう、パソコンどころではなかった。

私はいったい何のために筋トレを続けているのだろう。

自分の身体を強くしたい。健康でいたい。好きなことを長く楽しみたい。

そのために2年以上も努力を続けてきた。

それなのに、父親の都合で無理を重ね、(せっかくの体を休める日に)腰を痛めてしまった。

もし、この腰痛のせいで筋トレまで休まなければならなくなったらどうするのか。

筋トレは私にとって、単なる運動ではない。

自分の成長を実感できる、人生の大切な楽しみのひとつなのだ。

父親の思いつきに付き合ったせいで、その楽しみまで失うかもしれない。

そう考えると、怒りが収まらなかった。

本人は「家族を楽しませた」と思っている

そして、何より腹立たしいのが父親の認識だ。

父は今回も、家族を食事に連れていって、みんなを楽しませたつもりでいるのだろう。

お金を下ろし、家族で外食し、自分のやりたいことを済ませる。

父にとっては満足な一日だったのかもしれない。

しかし、その裏で私はどうなったのか。

貴重な休日を奪われ、腰を痛め、パソコンもできず、翌日以降の筋トレまで心配することになった。

父の満足のために、私だけが代償を払っている。

しかも、父親はそれに気づいていない。

自分が楽しければ、家族も楽しい。

自分が食事に行きたければ、家族も付き合う。

自分の都合が済めば、それで一件落着。

しかし、付き合わされた家族には疲労も痛みも残る。

私は、この一方的な考え方が昔から大嫌いなのだ。

こんな日が週に何回もある。決して特別な出来事ではない

ここまで読むと、「たまたま父親の予定に振り回された、大変な一日だったのだろう」と思う人もいるかもしれない。

しかし、そうではない。

私の家庭では、このように父親の思い込みや、その場の思いつきで家族が動かされることが、週に何回も起きている。

これが何よりも苦しい。

たとえば、ゴミ出しひとつ取ってもそうだ。

父の頭に「ゴミを捨てなければ」という考えが浮かぶと、それを済ませるまで何度も同じ話をして家族全員を集結させる。(一人で捨ててくれない、家族を巻き込む)

以前も、燃えないゴミを出す日が近づくと、朝から母に何度もしつこくゴミ出しを急かしていた。

早く出すと、ほかの人が燃えるゴミまで一緒に出してしまう可能性があるため、できるだけ遅い時間に出すという事情がある。

ところが父は1つの事でいっぱいなので、自分の頭の中にある「ゴミを出す」という用事を早く終わらせたい。

だから周囲の事情を考えず、何度も同じことを言い続ける。

しかも、ゴミが多いほど、「あれは重いから、みんなで捨てなければ」と言い出す。

自分でできることなのに、わざわざ家族を待って動員しようとするのだ。

こういうことが、ゴミ出しだけでなく、掃除、買い物、外食、そのほかの日常的な用事で繰り返される。

父親の頭の中で何かが始まると、家族の予定まで変わってしまう。

本人には急ぎの用事でも、こちらにとってはまったく急ぐ必要がないことも多い。

それでも、父親の中では「今やるべきこと」になっているため、周囲に何度も話しかけたり、人を呼び出したりして、自分の望む方向に動かそうとする。

そして、用事が終われば父親はスッキリする。

しかし、振り回された家族の疲れは、その瞬間に消えるわけではない。

こちらには仕事がある。やりたいこともある。身体を休めなければならない日だってある。

ところが父親は、また数日後には別のことを思いつき、同じように家族を巻き込もうとする。

一週間のうち何度も、自分の生活に父親の都合が割り込んでくる。これが何年も、何十年も続いたら、人間はどれほど疲弊するだろうか。

私の場合、その積み重ねによって、休日が来ても心から安心できなくなっている。

今日は何も起きないだろうか。

また父親が突然何かを言い出すのではないか。

そんなことを考えたくもないのに、過去の経験から次に起きることが予想できてしまう。

だから、今回の外食事件も、単なる一回の迷惑行為では済まないのだ。

何十年も繰り返されてきた出来事の、また新しい一件なのである。

一番つらいのは、怒りが収まっても終わらないこと

こんなことが一度きりなら、まだ我慢できるのかもしれない。

しかし、私の場合は違う。

父親のこうした行動は、私が子供のころから何十年も繰り返されてきた。

一つのことが頭に浮かぶと、済ませるまで何度もしつこく話す。

自分でできることでも家族を巻き込む。

自分の考えが正しいと思い込み、他人の意見を聞こうとしない。

間違いを指摘されると不機嫌になる。

そして、家族が嫌がっていることに気づかないまま、また同じことを繰り返す。

そのたびに私は怒り、疲れ、気力を失う。

時間がたてば怒りも少しずつ収まる。

しかし、やっと気持ちが落ち着いたところで、今度は父親のほうからまた何かを言ってくる。

突然の用事、同じ話の繰り返し、どうでもいい報告、自分の予定への巻き込み。

こちらが忘れようとしても、また新しいストレスがやって来る。

しかも、週に何回も繰り返されるのだから、気持ちを十分に回復させる時間さえない。

休日に疲れを取ろうとしても、その休日自体を父親に邪魔される。

何とか気持ちを立て直して好きなことを始めても、また別の用事で中断させられる。

だから、いつまでたっても心が休まらない。

本当に苦しいのは、ひとつひとつの出来事だけではない。

自分の人生を自分のペースで生きられない日々が、何十年も続いていることなのだ。

怒りだけではない。

悲しさもあるし、虚しさもある。

何もする気が起きなくなる日だってある。

私は自分の人生を少しでも良くするために、仕事をし、筋トレを続け、ブログの運営にも力を注いできた。

しかし、その努力によって得られるはずの充実感や達成感を、父親の思いつきに何度も邪魔されてしまう。

どうして私は、こんな当たり前の自由さえ尊重してもらえないのだろう。

もう、父親の話し相手になるのもやめようと思う

実は私は普段、朝になると父親のところへ顔を出し、一緒にテレビを見るようにしている。

父が寂しくないようにという気持ちもあって、長年そうしてきた。

しかし、これからはもうやめようと思う。

父はテレビを見ながら思いついたことを次々と話し、昔の話や聞いたばかりの知識を一方的に披露する。

こちらが興味を持っているかどうかは関係ない。

毎朝、私はそんな話に付き合ってきた。

でも、こちらが気を使っているからといって、父も同じように気を使ってくれるわけではない。

私の休日も、身体の状態も、やりたいことも、父親の思いつきの前では後回しにされる。

それなのに、なぜ私ばかりが父親の気持ちを考えなければならないのか。

父親が寂しい思いをしないように、こちらが毎朝顔を出す。

その一方で、父親は自分の思いつきで私の生活を振り回す。

そんな一方的な関係を、これからも続ける必要があるのだろうか。

もう十分に付き合ってきた。

これからは、自分の時間を自分のために使いたい。

私が望んでいるのは、ただ放っておいてもらうこと

私は父親に、何か特別なことをしてほしいわけではない。

高い食事をおごってほしいわけでも、買い物に連れていってほしいわけでもない。

むしろ、その逆だ。

自分のことは自分でやってほしい。

食事に行きたいなら、行きたい人だけで行ってほしい。

買い物に行きたいなら、勝手に行ってほしい。

自分の思いつきを、家族全員の予定にしないでほしい。

そして何より、私の時間と身体を勝手に使わないでほしい。

たったそれだけのことなのだ。

本人にとっては、何でもない一日。

しかし、巻き込まれた私にとっては、身体を痛め、大切な休日を失い、楽しみまで奪われかねない一日だった。

そして、数日後にはまた同じようなことが起きる。

父は今日も、自分のやりたいことができて満足しているのかもしれない。

しかし、私はもう限界だ。

親子だからといって、親の都合にいつまでも付き合わなければならないわけではない。

私には私の人生がある。

その当たり前の生活を、これ以上邪魔されたくない。

私が父親に求めているのは、家族サービスでも親切でもない。

ただ、自分の人生を自分の意思で生きる自由を、尊重してほしい。それだけなのだ。

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