志木市のいろは樋(どい)が気になり
いろは樋跡が残る現場へ見学に行きました。
栄橋(さかえはし)付近に
保管されているいろは樋(復元)。
350年程前に、玉川上水の水を運ぶために
空中に浮かす水路を作ったというのは非常にロマンを感じます。
それが志木市の発展に繋がっていると思うと感慨深い。
いろは樋とは?
水の便の悪かった野火止台地の飲料水&
灌漑用水として明暦元年(1655)に
開通した野火止用水(のびどめようすい)は、
玉川上水の取り入れ口の小川村(現小平市)
から新座郡引又村(にいくらごおりひきまたむら)
現志木市までの24キロメートルを流れ、
最後は新河岸川に落ちていました。
対岸の宗岡地区の大半を知行していた
旗本岡部氏の家臣白井武左衛門は、
低地でありながら灌漑用水に乏しい宗岡地区に、
いままで虚しく落ちていた野火止用水の末水を
引いて生産力を増大しようと考えました。
当時は、舟運(しゅううん)が盛んだった為、
船を邪魔しないように高い位置に水路を架設する事になりました。
(水面からの高さは4.4メートル)
柳瀬川と新河岸川の合流地点付近
寛文2年(1662)新河岸川の上に
約260mのいろは樋が架設されました。
掛樋を48個繋いだため、いろは樋と言われています。
(いろはにほへとは48迄)
いろは樋のしくみ
いろは樋のしくみは実に興味深い。
溜めた水の勢いで下から上に押し上げる方法だ。
いろは樋の構造は、
高い位置に小桝(こます)を設け、隣の大桝に送ります。
小枡から勢い良く落下する水勢によって
大桝の底部から流れ込み満たされると
その勢いで水は高く位置する掛樋(かけひ)”水道専用橋”を通り
新河岸川の上を通り、対岸の宗岡側の
精進場(現在のいろは橋交番付近)に送られていました。
木製の掛樋は当時としては偉業でありましたが、
老朽化も早く、1898年(明治31年)からレンガ&鉄製に
変化し、耐久性も増した。
飲料水の問題性と終了へ
1949年(昭和24年)になると健康問題が発覚し
細菌検査により飲料不可となる。
最終的には、下水管となり宗岡へのルートは遮られることになった。